最近沢山の方とのお話の節々で出てくるキーワードが、S性M性についてのこと。自分はM性が強いよ、とか弱いんだよね、とかなまけものはSっけがあるかも(!)、とかね。
ただマゾ・サドって最近は割合一般に使われる言葉になってきたからつい気軽に使っているけど、その本質的な事柄について意識することってあまりなかったなと思って、真夜中に少し考えこんでしまいました。
サディズムやマゾヒズムって、端的に言ってしまえば言葉の由来ともなっているサドやマゾッホが空想したり、実際に行ったような加虐的/嗜虐的な性的嗜好性を示すでしょう。
ごく簡単な言葉で表せば、苛める/苛められることによって性的に興奮しちゃうコト。
でもただ苛める/苛められるだけじゃないですよね。
特に苛められる方は、ただただ苛められたって痛いばっかりなハズだもの。
やっぱりその「苦しみ」の中に様々なストーリーがあって、その中に倒錯していくことによって性的な興奮を得ることができる、と思うんです。
もう一方の苛める方についても、ただ対象を破壊するだけなら誰にでもできるでしょう。でも、「苦しみ」を与えながら相手を満足させるに足る「ストーリー」を提供するには、相手の欲求を十二分に理解してあげなくてはできないんじゃないかな。そういう意味では、サディズムとマゾヒズムはまったく別という見解もありますが、なまけもの自身はやっぱり表裏一体のもので、マゾヒズムを持つ人の裏にはサディズムがあり、逆もまた然りなのではないかと思います。
CFNMは本来「着衣の女性と裸の男性」という「差」を楽しむシチュエーションです。ですが女性は衣類を着ているのに、男性だけ裸である、というのは「羞恥心」を強く感じさせるものではないでしょうか。
この「羞恥心」だって、普通であればけっして気持ちの良いものではないはず。
それなのに、「なぜか」気持ちよくなってしまう。
その気持ちよくなる要因の一つには、一種のマゾヒズム的な快楽があるんじゃないかな、って思っています。
…と色々考えていて思い出したのですが、なまけものは昔、怖いものみたさもあってサドの「ソドムの百二十日」を読んだことがあります。内容もやっていることも何もかもめちゃめちゃだけど、サドなりの「美学」があるのはビシバシ伝わってくるものだったので、その世界にはまってしまう人もいるかもしれないと感じましたね。
でも想像もしたくないような、拷問としかいいようのない、めくるめく責め苦が展開されていくので、なまけものはその物語の世界にトリップしたいとは1ミクロンも思わなかったです…。実際ソドムのワンシーンを夢で一回見たことがあって、しばらくトラウマになりました…。確か食事のシーン、スープをいただきましょうといって美少年のハナミズをすする、というものだった気がします。2日くらいスープが飲めなくなりました。